気ままに映画のレビューを綴るこちらのシリーズ。
今回は、デイミアン・チャゼル監督
圧倒的音楽×ダンスで贈る極上のエンターテイメント
映画「ラ・ラ・ランド」です。
※ネタバレを含みますので、
これからご覧いただく方は先に視聴していただくことをオススメします!
それではどうぞ(´ω`)
世界観に引き込まれるファーストシーン

車の渋滞シーンから
突如始まるミュージカルシーンは、
憂鬱と爽快のコントラストを見事に演出し、
一気に世界観へ引き込ませる秀逸なものである。
この映画は、
「誰も自分なんてみていない」
「自分の居場所はどこなのか」と悩みながら
夢を追い求める男女(以下セバスチャンとミア)
の物語である。
人生が動き始めたほんの些細なきっかけ

別々の世界を歩んでいたミアとセバスチャン。
2人の世界が初めて交差したのはバーである。
ここからミアの人生は動き始めたのだが、
そのきっかけは、
誘われたパーティーに参加したことである。
もしこの時仕事に行っていたら、
また人生は違っていたのだ。
このシーンから、些細な選択が、
時に重要なターニングポイントになる
ということを感じさせられるともに、
人生なんてそんな「ちっぽけな」選択の上に
成り立っているんだと思い知らされる。
運命なんてそんなものなのかもしれない。
理想・夢と現実の葛藤
2人の世界線が重なった冬
急速に距離が縮まった夏
価値観がズレ始めた秋
というように、
物語は季節の移り変わりに合わせて進んでいく。
夢を追い求めるなかで、
自分の理想や夢を追い続けるのか
夢を変えて現実を見るのか
という壁に直面する2人。
現実を見ることを大人になること
と表現されるのは映画の中だけではない。
大人は夢を見てはいけないだろうか。
おそらくら
大人は夢を見てはいけないのではなく、
見るのが怖いのだ。
社会や様々な人たちと
関わり合いを持つようになるのが大人は、
知らぬ間にあまりにも多くのものを
背負ってすぎている。
夢はいつだって不安定であり、
夢を追いかけることは
ゴールの見えない暗闇を走り続けることである。
失敗が怖い、積み上げたものを失うのが怖い。
そんな気持ちを「大人は現実を見るべき」という
他責にすることで自己肯定しているのだ。
セバスチャンも1人だったら
夢を追い続けていたかもしれない。
ミアという守るべき存在ができたからこそ、
現実を見ざるを得なかったのかもしれない。
とはいえ、
夢を追いかけることで失うものも多く、
大きなリスクがあることは
まぎれもない事実である。
だから
現実世界ではこの映画のような、
「サクセスストーリー」に
人々は心動かされるのだろう。
最高峰のラストシーン
価値観の違いから
別々の道を進むことになった2人。
時は進んで5年後の世界。
ミアは別の男性と家庭を築いていたが、
偶然「Seb's」というバーで
セバスチャンと再開する。
ここから始まるラストシーンが秀逸である。
初めて会った時、セバスチャンがミアを
突き飛ばさずキスをしていたら、の理想の世界。
今となりに違う人かもしれない。
一緒にいたとしても
その理想にはなっていないかもしれない。
ミアと旦那があそこで高速を降りず
渋滞のまま進んでいたら、
2度とミアとセバスチャンは
再会することはなかったかもしれない。
あとラストシーンでは
いくつもの理想と現実が交差している。
冒頭でも触れたが、
人生は無数の分岐点の上に成り立っている。
もしかすると今の「ちっぽけな」選択は、
人生における「大きな」選択なのかもしれない。
結果がわかるのは
選択の瞬間ではなくその後なのだ。
私たちができることは、
ベストな選択をすること ではなく、
選択をベストなものにする
ことしかないのかもしれない。
ミアとセバスチャンは
別々の世界線を生きることにしたが、
それぞれが幸せである。
それは2人が最後目を合わせ
頷きあったところからも想像される。
あの時の選択をベストなものにしたのだ。
完璧な人生なんてない。
完璧である必要もない。
活力になる素敵な映画でした。